コショウは、古代からインド地方の重要な輸出品であった。紀元前4世紀の初め頃、古代ギリシアの植物学者テオフラストゥスは『植物誌』の中でコショウと長コショウ(ヒハツ)について記している。ヨーロッパでは、古くからコショウは貴重品であり、紀元1世紀のローマの博物学者大プリニウスは1ポンド(約500 g)の長コショウの価値は15デナリウス、白コショウは7デナリウス、黒コショウは4デナリウスと記録している。古代の地中海世界では、長コショウが成熟したものが黒コショウになると考えられており、その間違いは、16世紀にガルシア・デ・オルタによって改められるまで続いた。長コショウは白・黒コショウよりも高額に扱われていたが、中世盛期に入ると黒コショウなどと競合するようになり、中世後期にはヨーロッパでは使われなくなっていった。
コショウの取引における高値のさまは、1世紀のローマにおいて、コショウが同重量の金や銀と交換されたかのような表現もされる。ローマが西ゴート族の王であったアラリック1世に包囲された際、ローマ市民は包囲を解いてもらう代償として金5000ポンド、銀3万ポンド、絹のチュニック4000着、緋色に染めた皮革3000枚、そしてコショウ3000ポンドを渡すことに同意した。中世になると、インドとヨーロッパの間の交易はアラビア商人とイタリア商人(ヴェネチアやジェノヴァなど)が担っていたが、ヴェネチアの人々はコショウを「天国の種子」と呼び、その価値を高めることもしていた。十字軍や大航海時代などの目的の1つが、コショウなど東洋の香辛料獲得にあったことはよく知られている。
中国では、西方から伝来した香辛料という意味で、「胡椒」と呼ばれた。日本には中国を経て伝来しており、そのため日本でもコショウ(胡椒)と呼ばれる。天平勝宝8年(756年)、聖武天皇の77日忌にその遺品が東大寺に献納された。その献納品の目録『東大寺献物帳』の中に「胡椒」が記されており、また当時のコショウが正倉院から発見されている。奈良時代の日本ではコショウは生薬として用いられていたが、江戸時代初期に書かれた『雑兵物語』でも「(戦場で)毎朝胡椒を1粒ずつかじれば夏の暑さにも冬の寒さにも当たらない」としており、このころにも薬用としての需要があったことを示している。
コショウは奈良時代以降も断続的に輸入され、平安時代には調味料としても利用されるようになり、江戸時代にはうどんの薬味や胡椒飯として用いられていた。トウガラシ(唐辛子)が伝来する以前は、日本でコショウは山椒と並ぶ香辛料として現在より多くの料理で利用されていた。江戸期を通じて唐船を介した輸入量は年平均5.7トン(1641年–1832年)、オランダ船を通じて78トン(1638年時点)のコショウを輸入していた。現在も船場汁、潮汁、沢煮椀などの吸い物類を中心に、薬味としてコショウを用いる日本料理は残存している。
日本では、トウガラシはその伝来当初、コショウの一種として「南蛮胡椒」や「高麗胡椒」などと呼ばれていた。このため、現在でも九州地方を中心に、唐辛子を「胡椒」と呼ぶことがある。九州北部で製造される柚子胡椒や、沖縄のコーレーグス(高麗胡椒)の原料はコショウではなくトウガラシである。「胡椒」をトウガラシの意味で用いる地域では、他地域で胡椒とよばれるものを「洋胡椒」と呼んで区別することもある。
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